文運堂社名の由来、学習帳のパイオニア
文運堂は叔父の大橋佐平が興した大手出版社「博文館」で支配人を務めた山本留次が独立し、洋紙販売大手となる「博進社」とともに創業した文具製造会社です。1909年(明治42年)創業当時の取り扱い品目は、帳簿・ノート・手帳・各種文具でしたが、小学生用練習帳・筆記帳に力を入れていました。
このように文具を通して日本の教育と文化に寄与するのにふさわしい社名として「文運堂」としたようです。明治40年代から発売された小学生向けノートの学習帳は、東京では文運堂が、大阪では中村鐘美堂等がパイオニアだったと言われています。 |
初期学習帳の表紙のご紹介
(転写協力 : 大橋影氏 ・ 岡田修氏) |
現在の学習帳の表紙は、写真、イラスト、意匠デザインをオフセット印刷し、さらに表面加工しております。 では、明治時代後期に生まれた初期学習帳の表紙はどのようなものだったでしょうか? 最初は木板刷りで武者絵などが印刷され、その後、電気銅版で印刷されるようになりました。左の写真は、その銅版を作る時の原版の木型で、木版彫刻専門の彫師が桜の板に細かい線で何本も手彫りしたものです。 それを和紙に転写されたもので、細かい線まで綺麗に良く描かれていることがわかります。 初期学習帳の原版は、関東大震災や戦争での空襲、あるいはメーカーの合従連衡、工場の閉鎖などで散逸してしまいました。現存するものでは、とても貴重なものです。
たまたま論語の文字が見えます。いわく、温故知新一古きを訪ねて新しきを知る。 手彫りの精密さに驚くとともに、時代を超えた温もりが感じられます。 |
象地球印
文運堂のトレードマークである「象地球印」は、創業2~3年後から使い始めています。陸上で最大の動物である象が、地球の上で世界を君臨する意味合いで、その頃の時代に好まれた、スケールの大きな図柄です。近年簡略マークに変更しましたが、復活を望む声は大きいものがあり、総合カタログの表紙にしました。 |
「セレクト」ブランド
1970年(昭和45年)富山工場稼働を機に立ち上げた学習帳・ノートのブランド名です。 セレクトプランドの商品が市場に広がり、当社の代表商品群になっていきました。 |
「KOKKA」ブランド
「コッカ」は画用紙を中心とした学用紙製品のブランド名です。元々は「國華」で、昭和30年代初めから使っていました。 このブランド名採用の経緯を明記したものは残っていませんが、明治22年(1889年)に近代美術界の巨星、岡倉天心らが欧化主義への反省から創刊した日本東洋美術専門誌「國華」に影響されたものと思われます。 この「國華」は当初、木版色摺を多用した精巧な図録集でしたが、印刷技術の進展で、コロタイプ印刷の採用、最終的にはオフセット多色印刷へと変遷して行きました。ちなみに「國華」とは、国の名誉、栄光の意味です。 国の華である日本美術の発展に寄与したいとの思いが、美術教育用の学用紙製品に、「國華」(コッカ)という重いブランド名をつけたのもなるほどと納得できます。 |
白文帳
表紙が黄土色で30枚綴じ、A5判で234マス(13×18)のマス目ノートです。昭和10年代に松本市内の漢文教師が考案し、当社が一手に製造販売を担ってきました。主に長野県内の中学校で使われ、長野県民にはお馴染みのノートです。新聞やテレビでも紹介されています。 ちなみに、句読点、返り点、送り仮名が付いていない漢文を白文といいます。 今では漢字練習、数学、生活ノートとしても使われています。 |
方眼ノートでもパイオニア
黄表紙ノートの生い立ち方眼ノートの「応用罫黄表紙」は、当社が昭和40年代に発売した新形態ノートです。どんな教科にも応用でき、左聞き・右聞き・縦書き・横書きのいずれにも使えるところが画期的なところです。 岐阜県を中心とした中部地区で販売されていましたが、授業で使用した先生が転任先でも使い、授業参観した先生が使うといった具合に広がっていき、1972年(昭和47年)から全国販売になりました。このノートは、名古屋では「黄んない表紙のノート」と呼ばれて好評を博し定着することが出来ました。黄土色の表紙はプレスでエンボス加工されており、独特の手触りと高級感があります。 |
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豊富な種類文運堂の方眼ノートは表紙デザインで「応用罫黄表紙」と「応用罫カラー表紙」があります。「応用罫黄表紙」はセミB5判で、罫線の種類が方眼罫を中心に32種類もあります。 「応用罫カラー表紙」は、セミB5判が5ミリ方眼11色を中心に31種類あります。A4判は5色で7種類あります。 |